ここに長々と書くとあまり読んでもらえないみたいだが、それでもあえて書くことにする。

「最悪の状況におかれた人間は自分の人間性、“人らしさ“を保とうとする。そのために芸術の役割、そのチカラはすばらしいのです。」「死と隣合わせの過酷な環境のなか朝目覚めて、瓦礫の隙間に咲いている花を見て“きれい”だと感じられなくなると、もうそれは人らしさを失っている。

人間としてもうお終いなんです。だからこそ彼らは、たとえ食うものがなく、人間として扱われない地獄の状況に置かれても、芸術に触れることで自分の人間性を保とうとしたんです。」この言葉にグサリときた。だから長々となろうとも書こうと思う。(かなり過激な内容になってしまいますが、どうか目を背けずに読んで戴ければと思います。)

アウシュビッツ

 

ほぼ正確なデータが残っているなかで、おそらくは人類史上最悪で最も恐ろしい大量殺人が行われたところ、ポーランドのアウシュビッツ・ベルケナウ収容所に行ってきた。

わずか数年間に百万人を越えるユダヤ人が、大量破壊兵器ではなくナチスドイツによって、しかしそれにはナチスのおぞましいカラクリがあって、実際の殺戮行為は自らの死の恐怖から逃れんとユダヤ人自らによって行わされたという。

日本へ観光に来た外国人が、「広島や長崎は恐ろしいから行きたくない!まして霊なんかついてきたら…」などと言われたり思われたりしたら、日本人として悲しい。同じようにナチスドイツによる戦争の遺物とはいえポーランド人も、ましてや世界中に散らばり生き残ったユダヤ人にすれば、当然同じ気持ちであろう。

大量に残されたユダヤ人の髪の毛の部屋、靴の部屋、鞄の部屋、収容所で最低限人間らしく生活しようと持ち込まれた日常品、例えば最低限の食器の部屋、人形など子供の玩具の部屋、眼鏡の部屋、などなど、戦後60年以上の歳月を経て錆び付き変色こそあれ、無造作に積み上げられ、どれもナマナマしく強烈に何かを訴えかけてくる。

それらはたしかに目を覆いたくなる。現代美術でよく似た表現があるが、比べものにならない。これら大量の遺品はよく知られているように、ヨーロッパ各地から小さな貨物車に詰め込まれ、床面十二・三畳ほどのところに70人からが荷物を抱えて乗せられたという。老人や子供は、着くまでに息絶えてしまうこともあったらしい。そして、なんとかアウシュビッツまでたどり着いたところで、労働力として使えそうな男性などはベルケナウ収容所の方へ、その他老人や子供、女性のほとんどは、わずかな希望を持って必死で運んできた家財道具は没収され、集団生活のための消毒と偽られて、丸裸にされた。誇り高き紳士も、その場なりにも精一杯おしゃれをした少女さえも。そして、その五分後にはガス室で殺されてしまう。

没収された家財道具の類いは分別され、ドイツ国民の財産となる。一つ一つは微々たる価値のものであっても、それらが百万人分を超えると無視できない価値である。ましてや戦時中のこと、ナチスドイツにとって行為を正当化する要素は多分にあった。しかし家財没収の正当化などと比べものにならない行為が、人間性の欠片もないガス室での大量殺人後の、常軌を逸した行いである。ほんの五分前までは、人間として恐怖と僅かながらも未来への希望に思考を巡らせていたであろうまだ温かい体温の残る生身の肉体を、まるで食肉を捌くがごとく扱ったこと。

女性は頭髪を削がれ、紡績製品の原料となっていった。さらに、体から絞り出された脂分は石鹸などへの加工もされたという。その行為は想像するのも耐え難い。残った大量の肉体の残骸は、やはり自身に迫る死への恐怖から逃れるため、ナチスの命令によってユダヤ人自らによって焼かれた。しかしあまりに大量の死体に対して、焼却燃料など贅沢品であって、むしろ伝染病を防ぐなどと、対外的な名目・目的程度に処理され、生身よりもより残酷な姿で埋められた。

これらの行為は、良心ある人間にはとても出来ない。ナチスドイツのあまりにも巧みなカラクリはそこにあったのである。

ナチスの命令とはいえ、それぞれ一ドイツ兵自らがその行為を行えば、やはり健全な理性、人間性によって抑えられただろう。だからこそ指示こそしてもその残忍極まりない現場行為を、ユダヤ人にさせることでねじ曲がりつつも兵の理性は保たれた。ユダヤ人にしても、その行為を行っている者はその瞬間、自らの命をかろうじて繋いでいるのである。さらに腹立たしいほど残酷英知なのは、それらの没収殺人の子細な記録を数値化してまとめるという“業務”をドイツ兵に課した。それは例えば、没収した懐中時計があったとして、『今日は何千個の収穫があり、ドイツ国民にとって●●の利益をもたらしたことになる。』と文書化した。現場行為を行っていない彼らにとって、この文書化するということで自らの忠誠心、歪んだ愛国心といったものが正当化されていった。没収行為に始まり、ついには殺人後の頭髪を削ぎ取る行為さえ、髪の毛●千人分が『絨毯●メートル分、●枚分』と数値化文書化され、ドイツ国民にどれだけの金銭的利益をもたらしたかと考えることで、解けないほどねじ曲がって正当化されていった。

では何故にユダヤ人たちは、これだけの残忍行為に巻き込まれ抵抗出来なかったのか。

これだけの残忍行為であったので、どこからとなく噂は流れていた。しかし当時のユダヤ人側からみたドイツ人のイメージとして、『まさかあのドイツ人がそこまではしないだろう。誇り高き真面目なドイツ人なら、我々を守ってくれるだろう。』と、現在でこそそのイメージは理解できるが、あの状況においてドイツ人に対する良いイメージというものすらナチスは計算し利用した。

日本人からすると、ユダヤ人のイメージは、『商売上手、お金持ち、民族として数奇な運命…』など浮かぼうか。しかしその商売上手なことなど、民族として数奇な運命を辿ってきたからこそ、一生懸命生きようとして得たことである。ユダヤ人に限らず、日本人にしてもドイツ人にしても、その民族の歴史経過が特徴をつくりイメージをつくる。

民族というものは、歴史を辿れば常に他民族と衝突してしまう。しかしユダヤ人という一民族丸ごとを消し去ってしまわんとしたこのアウシュビッツ・ベルケナウ収容所で起こったことは、ある意味では特殊なことである。たしかに第一次大戦で、膨大すぎる賠償金を背負わされたドイツ人は、その脱け出せない閉塞感から、たとえ強引でも強いカリスマ性を持ったリーダーと強力な政治力を待ちわびていたという背景はある。そこへナチス・ヒトラーが現れ陶酔していった。

そういう背景がないと、あそこまでシステム化された残忍行為は起こらないのだろうか。いや、地球上のあらゆる民族が常になにかしら衝突をしているかぎり、残忍行為を行う側にもされる側にもなりえるはずだ。我々日本人とて、歴史を振り返れば常にその可能性を秘めている。だからこそ、アウシュビッツ・ベルケナウ収容所で行われたことと、その背景に何があったのかを、全世界の人々が自らの眼で見て感じなくてはならないと思う。

ベルケナウ収容所で労働力としてガス室を免れた人々は、しかし平均して2ヶ月ほどで力尽きていったという。真冬になればマイナス20℃にもなる極寒の環境で与えられる食料は、過酷な農作業によって自給自足させられてはいたが、せいぜい凍った芋一つほどであったという。極寒のなかでの寝床も、畳一枚ほどの固いベッドに三人が詰め込まれ、座っても頭がつかえる高さに積み上げられたものであった。布団も毛布などなく、せいぜいワラでかろうじて保温する程度であった。さすがにマイナス20℃にもなる環境であり、収容施設には小さな暖炉があった。また他にもある意味では人間的な扱いとして、トイレは簡単だが底に水を流すため溝の掘られた水洗式であった。『人間的な扱い』と書くと、少しはナチスも人らしい理性が働いたかと思えるかもしれないが、これも対外的な一つの宣伝であったという。つまり、その水洗式のトイレであったり、暖炉であったり、先に書いた火葬施設であったり、また現地に展示されていたものだが、ユダヤ人たちがユダヤ人たち自身による楽器の演奏会を楽しんでいるシーンの写真が展示されていたが、これらは、このアウシュビッツ・ベ
ルケナウ収容所でユダヤ人はナチスドイツによって守られ人間的な生活を営んでいるというメッセージを発するために利用したのである。そしてさらに恐ろしいのが、自給自足による食料保持や水洗式トイレや火葬施設は,実は最も恐れられたことが、最低でも一人2ヶ月以上の労働力を確保するため、つまり伝染病の発生を恐れたという、おぞましい計算の上につくられたシステムであったということだ。

そんな環境から、本能的と言って良いのか、収容所の人々は監視兵の隙を狙って脱走を試みた。しかし高圧電流の流れる非情なまでの鉄線の囲いを越えることは出来なかった。そして、収容所の外の人々に助けを求めようとも、ナチスはこのアウシュビッツ地区に住んでいたポーランド人の居住も、その地区への立ち入りをも禁止していた。つまり、人間として究極的に絶望的な環境がそこには存在したのである。

何事も、その現場で起こった事実を自分の眼で見て感じることは必要である。しかし何故そうなったのかは、事実をねじ曲げられていたり、イメージや偏見が邪魔をして決して事実を知り得ているとは言い難いことが、歴史を遡れば往々にしてある。

アウシュビッツ・ベルケナウ収容所には、毎年日本人が約6000人訪れているという。ちなみに韓国人は毎年30000人以上が来ているらしい。しかしその事実を伝える日本人ガイドは現地在住の中谷剛氏ただ一人であるらしい。今回、お忙しい中谷氏のスケジュールに合わさせて頂き、僕の抱いていたイメージや偏見を切り離して、歴史上に起こったこの残酷極まりない事実と、その背景を知り得ることができた。ここに書き綴ったことは、全て中谷氏からの説明解説を基にしたものである。中谷氏は唯一の現地日本人ガイドとして、毎年日本各地での講演会など多忙な日々である。

僕は中谷剛氏に質問した。

「こんな過酷な環境のなかで、何を生きがいや楽しみにしていたんでしょうか?それは人間が生き物として本能的に“死なないため”の食事であったんでしょうか?」

「いいえそうではありません。彼らに与えられる食料はせいぜい凍った芋一つほどでした。それよりも、彼らは、人間として最後まで人間らしく生きようとしたのです。その支えと成り得るものは、あなた方のような芸術に感動できる心を持ち続けようとしたのです。」

明日目覚めれば寒さに衰えきった体力を奪われ、息絶えるかもしれない。それでも同じく収容所にいた絵の描ける仲間に自分の顔を描いてもらった。キャンバスはおろか紙も鉛筆もない環境で、凍える極寒の隙間風吹き荒ぶ収容施設の粗末な壁に、石片を画材にして描いたのだろうか。そこに描かれた己の姿に心から純粋に感激した。たとえその一晩の寒さを乗り切る体力さえ残っていなくとも。

中谷剛氏がベルケナウ収容所の片隅を見つめて言う。

「朝目覚めて、あの瓦礫の隙間に咲く黄色い花を見て“きれい”だと感動できなくなったら、もうそれは人間としてお終いなんです・・・。」