続・ブータン王国

By |2018-07-31T10:11:03+09:0011月 23rd, 2011|

ほんの数日間のブータン国王夫妻の来日は、日本人に爽やかにして強烈なメッセージと余韻を残していかれた。 僕を含めてイイ意味で感化されやすい日本人は、一気にブータン王国に注目が集まっているようだ。ブータン王国へのツアー旅行の問い合わせも殺到しているらしい。 もし可能なら、日本中の中高生に修学旅行でブータン王国へ行って、本当の幸福ってナンだろう?と感じ考えてくれば、日本の未来も明るくなるのではと考えている僕としては、ブータン王国への注目が集まることは嬉しい。 しかしいろいろとブータン王国へ行くには、現実的に厳しい。 まずブータン王国への入国にはビザが当然必要であるが、単に旅行会社任せで少々の手数料で取れるというものではない。ブータン王国はつい最近までいわゆる鎖国状態にあったこともあり、入国できる外国人全体の数に制限を設けている。ブータン国内にある外国人宿泊用のホテルの部屋数までしかビザ自体を発行しない。そして、仮に上手く入国ビザが取れたとして、滞在日数 × 約20000円 の税金が必要である。そして滞在中は例え一人旅であったとしてもブータン人ガイドの同行が義務づけられている。 ブータンの、この厳しい入国制限は、やはりブータン王国らしいことである。 最貧国なのだから、観光客をどんどん入れて外貨を稼げばいいのに、とはブータン王国は考えない。ブータン人は、愛する美しい国土と文化、民族としての独自性を守ることが最優先なのである。最近でこそ、江戸時代の日本人はもしかして今より幸せだったのでは? と言われたりするが、ブータンが現代の世界的情報化の波にのまれ、国民総幸福という世界が尊敬する価値観(前ブログ記事でも触れました。)が崩壊してしまう可能性は、日本の幕末期とは比べものにならない環境状況だろう。 そのことを世界から学んで知っているからこそ、ブータン人は安易な外貨獲得などに走らないのだろう。 ブータン国民の平均年収は約10万円程度であるらしい。それでも97%の国民が幸せだと感じていることは、怪しい暗示にかかっているわけではない。ほとんどの国民が農業に従事し、自給自足の生活をしていること。それからこれが大きなポイントだと思うが、ブータン人はチベット仏教から派生した独自の仏教を厚く信仰している。例えば殺生は完全禁止である。蝦一匹、蟻一匹殺さない。当然豊富な水量を誇る美しい河の魚も捕らないしもちろん食べない。家畜も牛や馬は農耕用として大切に飼いミルクは搾るが食肉ではない。かといって肉の味を知らないのではなく、大切な家畜が寿命を迎えれば、その肉は保存食となり有り難く食す。実際にブータンの田舎町の唐辛子を干した屋根裏に肉の塊が吊してあった。 動物性タンパク質は主にミルクなどから作るチーズなどで補い、チーズや唐辛子を主とした調味料で味付けられた野菜中心のおかずに、米を主食として現代の日本人からすればかなり質素な食生活をおくっている。 再び、今回のブータン王国へのツアー旅行の盛況ぶりについてだが、先に書いたビザや税金などの、格安ツアー旅行からするとかなり高額な旅行代金を、ウン十万ウン百万人以上いるらしい?富裕層の方々がワケもなく支払えて、入国枠内の人数に入れたとして、はたしてブータンでの食生活に耐えうるだろうか。 舌の肥えた日本人が、世界の国々で満足できる食事をできることはなかなかない。ブータンでの食事は、外国人にはインドなどから輸入された魚や肉をホテルなどでは出されるが、それでも魚は泥臭いし肉もかなりクセのあるシロモノであった。もちろん味付けは辛めで単調である。しかしブータン人は魚も肉も食べないし、凝った調味料のない単調な味付けの野菜タップリの変化の乏しい食事を日々十分楽しんでいる。 また、ブータンでは国中が禁煙である。ほんの五年ほど前までは煙草を普通に国民が吸っていたようだが、前ブータン国王があっさり禁煙国宣言をして、特に国民の反発もなく受け入れられた。よって旅行者も煙草の持ち込みは禁止されている。しかしこれも1カートン約20000円の税金を払っていろいろ手続きをすれば、外国人はブータン人の前を避ければ吸うことはできる。さすがにそこまでして僕も吸おうとは思わなかったし、ブータン旅行から3ヶ月ほどは禁煙に成功したが‥ ちなみにアルコールはというと、ブータンにも地ビールがあったり、米から作ったワインか焼酎のようなそこそこ呑める酒もある。しかしお世辞にも美味いとは言い難い。 いろいろ書いたがつまり、ブータンへは軽い観光気分でお金にモノをイわせて行くようなところではない。 ブータン人は電柱が立って電線が引かれ電気が通った便利な生活になるより、電柱も電線もないトキやコウノトリが危険なく舞い降りる美しい自然に暮らせ、自給自足で慎ましく生きることに喜びと幸福を感じられる国民である。 そんな現代人がすっかり忘れ失った、真に人間らしい本当に普遍の価値観を守り続けているブータンという国に行こうというからには、現代人のメタボな精神をバッサリ削ぎ落とし、スリムになる覚悟で向かうべきだろう。 そして必ず同行するブータン人ガイドに(日本語を話すガイドもいるが大半は英語)、沢山の質問をしてみることをお勧めしたい。 例えば 『ブータンでは殺生が禁止ということは、殺人事件というものはあるんですか?そして、死刑というのはあるんですか?』 と聞いてみる。すると、 『殺人事件なんて私の記憶のなかではなかったと思いますし聞いたこともありません。そしてもちろん死刑という概念自体がありません。』 と答えてくれるだろう。 これは僕が4年前にブータンを訪ねた時の一つの質問である。日本に留学したこともあるという彼とは、夜更けまで酒を呑みながら沢山の話をした。そして、パロの空港へ向かうオンボロバスの車内で、ガタガタ道に揺られながら彼が最も気に入ったという日本の歌 『ふるさと』 を歌ってくれた。三番まで淀みなく。ブータンの美しい自然を車窓に見ながら、恥ずかしくも歌詞カードなしでは分からない二番三番の美しい日本語に感動しながら。 しかしブータンから飛び立った飛行機は、タイ・バンコク経由であった。ブータンでの強烈なカルチャーショックを引きずりながら、バンコクの繁華街でタイスキ鍋をいただいた。 そしてそのブータンにはなかった出汁の効いた海鮮鍋のあまりの美味さと、日本人向けに置いていたよく冷えたスーパードライのビールの美味さに、残念ながら贅沢な味にすでに慣れてしまっている我が舌を呪った。 ‥冒頭の写真は、ブータン・パロ郊外のとある農家の一隅です。

奥丹後にブータン ①

By |2018-07-31T10:10:28+09:005月 27th, 2011|

この前の土日、春の一泊スケッチ旅行に行ってきました。 前の週は、『こんなに晴れつづきでエエんやろか…』、とちょっぴり不安な日々を過ごしていました。そして案の定『ゆんで先生のスケッチ旅行の日はやっぱり雨の予報やわ~』と言われることとなりまして、かなり憂鬱な気持ちで集合場所へ向かいました。 参加される常連さんたちは慣れたもので、普通の折りたたみ傘だけでなく、暴風雨のレポーターでも出来そうな完全武装で来られました。…いつもどんな状況でスケッチさせてんねんやろ… ですが、雨を降らせる前線というのは、よく考えてみるとだいたいは蛇行しているもので、例えば大阪が雨でも北の方は晴れていたりするようです。つまり、今回はうまく前線の蛇行に助けられたようです。要するに、ゆんで先生のスケッチ旅行なのに、雨の予報やのに、スケッチする時は晴れているという“お約束破り”な幸運な旅となりました。 さて、今回一日目に訪れたのは、奥丹後の『世屋』という過疎の集落です。 …美しい集落なのに過疎化が進んでしまっていて、なんとか守り残そうと頑張っているらしい… という情報から出発した企画でした。しかし単純に観光客が喜ぶような風景ではありませんでした。なんと言うか、あのブータン王国を訪ねた時に味わった感覚のような、なんとも爽やかな、そしてズシリと重たい課題を課されたような、そんな気持ちにさせられる集落でした。 バスが通れない山道をタクシーでズンズン行くと、トタンが張られた元茅葺き(正確には、表面は笹吹き)の集落がぽっこり現れました。元茅葺きの家なら、まだまだ日本中に多々ありますが、ここ世屋での気配はナニかが違います。 我々は、タクシー6台に分乗して20人ほどで訪ねたのですが、現地でこの世屋を守り残そうと頑張っておられるNPO法人のEさんに説明と案内をお願いしてありました。以下そのEさんのお話と僕なりの推測を重ねて書きます。 まず、世屋(上世屋と下世屋があって、訪れたのは前者)で目にした花々がなんとも自然で鮮やかに見えました。そしてちょうど水張りの田植え真っ只中でしたが、山からの天然水を張られた田んぼには奈良の田舎にも勝って、蛙がゲコゲコ大合唱しています。さらに当然といえば当然、蛇が至るところでニョロニョロおります。この世屋の土地では、太古から農薬というものを使わずに土と自然に向き合ってきたそうです。なるほど、野性的とも感じた花々が色鮮やかな訳で、蛙や蛇だって生き生きしているはずです。世屋の花々は一見、田んぼの畦道に勝手に咲いているようにも思えましたが、Eさんからの諸注意にもあったのですが、『この土地の草花を、きれいだからと切ったり持ち帰ったりしないで下さい。あれらは、それぞれその場所で咲いてくれるのが分かっていて咲いている、農家にとって必要な草花なんです。』 とのこと。さらに、『どの家々にも柿の木が植わってますが 、あれらは全て渋柿です。庭を飾ったり食べたりするためではなくて、柿渋を利用するために、あえて渋柿の木のまま植わっています。』とのこと。ここでは太古から自然のままで、自然に逆らわず自然と共存して人々が営みを繰り返してきたのでしょう。 姿顔立ちも日本人に限りなく近いDNAをもつブータン人の黒髪を見て、日本人と同じなのに何故にこんなに美しいのだろうと心打たれた感覚に近いナニかを感じました。世界一幸せな最貧国と言われるブータンでは、標高3000メートル以上の山中で自然に逆らわず自然の恩恵を素直に受けながら、太古から変わらぬ農耕民族としての営みがありました。資本主義、金銭至上主義、便利さ最優先という、ある種麻薬のようなものに汚されていない血が、脈々と受け継がれているから、あの美しい黒髪はあるのだろうかと考え、帰国後も“ブータン後遺症”のようなものに“悩まされ”た感覚になりそうです。 スケッチをしようというより、何故だかぼーっとしていたい。ここの空気を胸いっぱい吸い込んで、ぼーっと考え事でもしていたい。ぼくにはそう思えました。 ぼーっと世屋の風景を眺めていると、元茅葺きの家々は、それぞれ絶妙の不規則さで建っているように思えました。おそらくこれも、よく見る整備された建て売りの近代住宅とは違って、山の起伏に逆らわず、家の建てれそうな土の上に昔から建っている。ただそれだけで、不思議と風景として一体感があって美しく調和して見えるのでしょう。 帰り際にEさんに尋ねました。 『この世屋のナニを守ろう、残そうとしておられるんですか?』 『世屋を愛するこの村の者は、観てもらおうとか、観光客を呼ぼうなどとは考えていません。あなた方20人ほどが来られても、それだけで村の人口を上回ってしまいます。この村の者は、団体で来る観光客というものに慣れていません。私たちは、ただ自然にこの土地での暮らしを守っているのです‥。』 日本にまだこんなところが残っているのか… そういえば、元茅葺きのトタンの家々は、もし“魅せよう”というのなら、世屋の伝統的な“笹吹き”にして、『どうぞ、観光客さんいらしてください。』と、しているだろう。そして、村に一台もなかった自販機だって、公衆便所だってつくるだろう。 しかし誇るべきは、守り残すことが、現代の人々のためや観光客のためなどでなく、世屋の地に生まれてくれる子のためにこそ意味があると考えられること。そして、お金がないと残せないなどと考えていないこと。 そう僕には感じました。 この上世屋は、日本で初めて、集落自体が、そこでの暮らし方というもの自体が、国立公園として認められたそうです。日本の国にも、こういう考え方が生まれてきたんだと嬉しくなりました。 Eさんは最後に、 『ゆんでさん、また20人以内で是非遊びに来てください。稲刈りの頃、秋がまた美しいですよ。』 と言ってくださいました。 Eさんの元笹吹きのNPOの事務所には、『ぶーたん』という看板が掛かっていました…。

アウシュビッツ・ベルケナウ収容所にて考えたこと。

By |2018-07-31T10:10:03+09:009月 26th, 2010|

ここに長々と書くとあまり読んでもらえないみたいだが、それでもあえて書くことにする。 「最悪の状況におかれた人間は自分の人間性、“人らしさ“を保とうとする。そのために芸術の役割、そのチカラはすばらしいのです。」「死と隣合わせの過酷な環境のなか朝目覚めて、瓦礫の隙間に咲いている花を見て“きれい”だと感じられなくなると、もうそれは人らしさを失っている。 人間としてもうお終いなんです。だからこそ彼らは、たとえ食うものがなく、人間として扱われない地獄の状況に置かれても、芸術に触れることで自分の人間性を保とうとしたんです。」この言葉にグサリときた。だから長々となろうとも書こうと思う。(かなり過激な内容になってしまいますが、どうか目を背けずに読んで戴ければと思います。)   ほぼ正確なデータが残っているなかで、おそらくは人類史上最悪で最も恐ろしい大量殺人が行われたところ、ポーランドのアウシュビッツ・ベルケナウ収容所に行ってきた。 わずか数年間に百万人を越えるユダヤ人が、大量破壊兵器ではなくナチスドイツによって、しかしそれにはナチスのおぞましいカラクリがあって、実際の殺戮行為は自らの死の恐怖から逃れんとユダヤ人自らによって行わされたという。 日本へ観光に来た外国人が、「広島や長崎は恐ろしいから行きたくない!まして霊なんかついてきたら…」などと言われたり思われたりしたら、日本人として悲しい。同じようにナチスドイツによる戦争の遺物とはいえポーランド人も、ましてや世界中に散らばり生き残ったユダヤ人にすれば、当然同じ気持ちであろう。 大量に残されたユダヤ人の髪の毛の部屋、靴の部屋、鞄の部屋、収容所で最低限人間らしく生活しようと持ち込まれた日常品、例えば最低限の食器の部屋、人形など子供の玩具の部屋、眼鏡の部屋、などなど、戦後60年以上の歳月を経て錆び付き変色こそあれ、無造作に積み上げられ、どれもナマナマしく強烈に何かを訴えかけてくる。 それらはたしかに目を覆いたくなる。現代美術でよく似た表現があるが、比べものにならない。これら大量の遺品はよく知られているように、ヨーロッパ各地から小さな貨物車に詰め込まれ、床面十二・三畳ほどのところに70人からが荷物を抱えて乗せられたという。老人や子供は、着くまでに息絶えてしまうこともあったらしい。そして、なんとかアウシュビッツまでたどり着いたところで、労働力として使えそうな男性などはベルケナウ収容所の方へ、その他老人や子供、女性のほとんどは、わずかな希望を持って必死で運んできた家財道具は没収され、集団生活のための消毒と偽られて、丸裸にされた。誇り高き紳士も、その場なりにも精一杯おしゃれをした少女さえも。そして、その五分後にはガス室で殺されてしまう。 没収された家財道具の類いは分別され、ドイツ国民の財産となる。一つ一つは微々たる価値のものであっても、それらが百万人分を超えると無視できない価値である。ましてや戦時中のこと、ナチスドイツにとって行為を正当化する要素は多分にあった。しかし家財没収の正当化などと比べものにならない行為が、人間性の欠片もないガス室での大量殺人後の、常軌を逸した行いである。ほんの五分前までは、人間として恐怖と僅かながらも未来への希望に思考を巡らせていたであろうまだ温かい体温の残る生身の肉体を、まるで食肉を捌くがごとく扱ったこと。 女性は頭髪を削がれ、紡績製品の原料となっていった。さらに、体から絞り出された脂分は石鹸などへの加工もされたという。その行為は想像するのも耐え難い。残った大量の肉体の残骸は、やはり自身に迫る死への恐怖から逃れるため、ナチスの命令によってユダヤ人自らによって焼かれた。しかしあまりに大量の死体に対して、焼却燃料など贅沢品であって、むしろ伝染病を防ぐなどと、対外的な名目・目的程度に処理され、生身よりもより残酷な姿で埋められた。 これらの行為は、良心ある人間にはとても出来ない。ナチスドイツのあまりにも巧みなカラクリはそこにあったのである。 ナチスの命令とはいえ、それぞれ一ドイツ兵自らがその行為を行えば、やはり健全な理性、人間性によって抑えられただろう。だからこそ指示こそしてもその残忍極まりない現場行為を、ユダヤ人にさせることでねじ曲がりつつも兵の理性は保たれた。ユダヤ人にしても、その行為を行っている者はその瞬間、自らの命をかろうじて繋いでいるのである。さらに腹立たしいほど残酷英知なのは、それらの没収殺人の子細な記録を数値化してまとめるという“業務”をドイツ兵に課した。それは例えば、没収した懐中時計があったとして、『今日は何千個の収穫があり、ドイツ国民にとって●●の利益をもたらしたことになる。』と文書化した。現場行為を行っていない彼らにとって、この文書化するということで自らの忠誠心、歪んだ愛国心といったものが正当化されていった。没収行為に始まり、ついには殺人後の頭髪を削ぎ取る行為さえ、髪の毛●千人分が『絨毯●メートル分、●枚分』と数値化文書化され、ドイツ国民にどれだけの金銭的利益をもたらしたかと考えることで、解けないほどねじ曲がって正当化されていった。 では何故にユダヤ人たちは、これだけの残忍行為に巻き込まれ抵抗出来なかったのか。 これだけの残忍行為であったので、どこからとなく噂は流れていた。しかし当時のユダヤ人側からみたドイツ人のイメージとして、『まさかあのドイツ人がそこまではしないだろう。誇り高き真面目なドイツ人なら、我々を守ってくれるだろう。』と、現在でこそそのイメージは理解できるが、あの状況においてドイツ人に対する良いイメージというものすらナチスは計算し利用した。 日本人からすると、ユダヤ人のイメージは、『商売上手、お金持ち、民族として数奇な運命…』など浮かぼうか。しかしその商売上手なことなど、民族として数奇な運命を辿ってきたからこそ、一生懸命生きようとして得たことである。ユダヤ人に限らず、日本人にしてもドイツ人にしても、その民族の歴史経過が特徴をつくりイメージをつくる。 民族というものは、歴史を辿れば常に他民族と衝突してしまう。しかしユダヤ人という一民族丸ごとを消し去ってしまわんとしたこのアウシュビッツ・ベルケナウ収容所で起こったことは、ある意味では特殊なことである。たしかに第一次大戦で、膨大すぎる賠償金を背負わされたドイツ人は、その脱け出せない閉塞感から、たとえ強引でも強いカリスマ性を持ったリーダーと強力な政治力を待ちわびていたという背景はある。そこへナチス・ヒトラーが現れ陶酔していった。 そういう背景がないと、あそこまでシステム化された残忍行為は起こらないのだろうか。いや、地球上のあらゆる民族が常になにかしら衝突をしているかぎり、残忍行為を行う側にもされる側にもなりえるはずだ。我々日本人とて、歴史を振り返れば常にその可能性を秘めている。だからこそ、アウシュビッツ・ベルケナウ収容所で行われたことと、その背景に何があったのかを、全世界の人々が自らの眼で見て感じなくてはならないと思う。 ベルケナウ収容所で労働力としてガス室を免れた人々は、しかし平均して2ヶ月ほどで力尽きていったという。真冬になればマイナス20℃にもなる極寒の環境で与えられる食料は、過酷な農作業によって自給自足させられてはいたが、せいぜい凍った芋一つほどであったという。極寒のなかでの寝床も、畳一枚ほどの固いベッドに三人が詰め込まれ、座っても頭がつかえる高さに積み上げられたものであった。布団も毛布などなく、せいぜいワラでかろうじて保温する程度であった。さすがにマイナス20℃にもなる環境であり、収容施設には小さな暖炉があった。また他にもある意味では人間的な扱いとして、トイレは簡単だが底に水を流すため溝の掘られた水洗式であった。『人間的な扱い』と書くと、少しはナチスも人らしい理性が働いたかと思えるかもしれないが、これも対外的な一つの宣伝であったという。つまり、その水洗式のトイレであったり、暖炉であったり、先に書いた火葬施設であったり、また現地に展示されていたものだが、ユダヤ人たちがユダヤ人たち自身による楽器の演奏会を楽しんでいるシーンの写真が展示されていたが、これらは、このアウシュビッツ・ベ ルケナウ収容所でユダヤ人はナチスドイツによって守られ人間的な生活を営んでいるというメッセージを発するために利用したのである。そしてさらに恐ろしいのが、自給自足による食料保持や水洗式トイレや火葬施設は,実は最も恐れられたことが、最低でも一人2ヶ月以上の労働力を確保するため、つまり伝染病の発生を恐れたという、おぞましい計算の上につくられたシステムであったということだ。 そんな環境から、本能的と言って良いのか、収容所の人々は監視兵の隙を狙って脱走を試みた。しかし高圧電流の流れる非情なまでの鉄線の囲いを越えることは出来なかった。そして、収容所の外の人々に助けを求めようとも、ナチスはこのアウシュビッツ地区に住んでいたポーランド人の居住も、その地区への立ち入りをも禁止していた。つまり、人間として究極的に絶望的な環境がそこには存在したのである。 何事も、その現場で起こった事実を自分の眼で見て感じることは必要である。しかし何故そうなったのかは、事実をねじ曲げられていたり、イメージや偏見が邪魔をして決して事実を知り得ているとは言い難いことが、歴史を遡れば往々にしてある。 アウシュビッツ・ベルケナウ収容所には、毎年日本人が約6000人訪れているという。ちなみに韓国人は毎年30000人以上が来ているらしい。しかしその事実を伝える日本人ガイドは現地在住の中谷剛氏ただ一人であるらしい。今回、お忙しい中谷氏のスケジュールに合わさせて頂き、僕の抱いていたイメージや偏見を切り離して、歴史上に起こったこの残酷極まりない事実と、その背景を知り得ることができた。ここに書き綴ったことは、全て中谷氏からの説明解説を基にしたものである。中谷氏は唯一の現地日本人ガイドとして、毎年日本各地での講演会など多忙な日々である。 僕は中谷剛氏に質問した。 「こんな過酷な環境のなかで、何を生きがいや楽しみにしていたんでしょうか?それは人間が生き物として本能的に“死なないため”の食事であったんでしょうか?」 「いいえそうではありません。彼らに与えられる食料はせいぜい凍った芋一つほどでした。それよりも、彼らは、人間として最後まで人間らしく生きようとしたのです。その支えと成り得るものは、あなた方のような芸術に感動できる心を持ち続けようとしたのです。」 明日目覚めれば寒さに衰えきった体力を奪われ、息絶えるかもしれない。それでも同じく収容所にいた絵の描ける仲間に自分の顔を描いてもらった。キャンバスはおろか紙も鉛筆もない環境で、凍える極寒の隙間風吹き荒ぶ収容施設の粗末な壁に、石片を画材にして描いたのだろうか。そこに描かれた己の姿に心から純粋に感激した。たとえその一晩の寒さを乗り切る体力さえ残っていなくとも。 中谷剛氏がベルケナウ収容所の片隅を見つめて言う。 「朝目覚めて、あの瓦礫の隙間に咲く黄色い花を見て“きれい”だと感動できなくなったら、もうそれは人間としてお終いなんです・・・。」

ブータン後遺症。

By |2018-07-31T10:09:36+09:0011月 1st, 2007|

"マニ車"以降のブータン現地記録の携帯ブログは、現地の電力事情によりまして記録出来ておりません。って、ちゃんと変圧器を通して携帯充電したのですが、コンセントが『バチッ!!』って煙出してくれて、結局このau携帯電話には、ブータンの純血な??電気は充電できないようでありました。 ところで、携帯は帰ってからいつものコンセントで無事に充電出来たのだが、僕自身の頭の方が、どうにも放電状態で始末が悪い。 おそらくは、ブータン後遺症ってヤツだと思う。 幸福、幸せってなんだろう…… って何処かで考えてしまっている。帰ってきて、ダボダボ半ケツズボンで携帯片手に大ハシャギの学生男子を見たり、金髪脱色で近寄り難き鋭きメツキの女子学生諸氏などなどとすれ違ったり、あるいは、テレビに写るバラエティ番組の軽薄さに猛烈な違和感を覚えたりと、とにかく、日本の日常の見渡す限りの雑踏に、足元の不安を感じてしまうのである。 短いブータン滞在中、案内ガイドを務めてくれ、連日連夜、ブータンの今後を熱く語ってくれた、日本語を話す27歳二人の子持ちのCさんの真直ぐに澄んだ瞳が脳裏をよぎる。 Cさんが日本留学中(北海道に三か月間居たそう。ブータン政府からの国費留学とのこと…)感銘を受け覚えたという日本の歌、『ふるさと』を帰り際、オンボロバスの車窓に流れる美しいブータンの山や田や川の風景を伴奏に、恥かしそうにも実に澱みなく3番まで歌い上げてくれた。 ブータンの27歳の真直ぐな青年の、美しい日本の歌。 日本人の何人が、あの美しい日本語の歌を、最後まで原風景を浮かべて歌えるだろうか…。 僕は只今、ブータン後遺症である。