11月7日金曜日、あの日は夕方まで大阪市内でちんちん電車をスケッチする授業があり、終えてからその日はたまたま奈良の生駒で用事がありまして、18時ごろ、近鉄上本町駅のホームで奈良行きの急行電車を待っておりました。

難波駅発の特急がゆるりと通過して行きました。

金曜日の夕刻とあって、別料金の必要な特急電車の車内はさすがにガラガラで、なんとなく眺めておりましたら、煌々と眩いほどのオーラを放つスキンヘッドのダンディな男性が、オシャレな長いマフラーを首から垂らせて、分厚い六法全書のような難しそうな本を、長い足を組んだ絵になるポーズで読んでおられました。

〝あっ!吉井先生や!〟

〝体調を崩してはるって聞いてたけど、お元気そうやん!〟

〝今の特急、たしか吉井先生のご自宅の方へ行く電車やなぁ~〟

〝しかし、毎晩飲んで帰ってはったのに、こんな健全な時間に真っ直ぐ特急に乗って帰られるなんて、先生も体調崩して改めはったんやなぁ~〟

〝みんなに教えてあげなきゃ!〟

と、ほんの一瞬でしたが、ダンディ過ぎる吉井先生を、あの日あの時間、確かに目撃し、あの後いろいろ思ったことを印象的に覚えております。

・・・それから数日後、エートス法律事務所から悲しいお電話を頂きました。

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吉井先生との出会いは、今から8年前になります。

お世話になっている画商さんを通じて、当時の私の自信作、対の40号の作品『絆・包』『絆・剛』という、土と人との素朴な営み、農耕民族としての日本人が生を得て継いでいくことなど、原初的なテーマを描こうとしていた私の作品を、吉井先生には大変共感頂きました。

それからしばらくして吉井先生から食事に誘っていただき、

〝憲法を絵に描かへんか!?〟

と、突拍子もないことを仰いました。

〝あの絵(絆の対の絵)を毎日眺めてたら思いついたんや!〟

〝・・・〟

〝あっ、そうか!、日本人の原点原初風景、足元を描くんやったら、全ての日本人の足元に当たり前にある日本国憲法を絵に描いたら、何か見えてくるかもしれませんね!〟

と、いうことで、

〝日本国憲法の心を描く〟(この名付け親も吉井先生でした。)の五年がかりのプロジェクトは始まりました。

憲法を絵に描くという、当初はイメージすら湧かなかった挑戦を、

〝一切の憲法書や専門書なんかは読まずに、弓手さんの感覚で、弓手さんの思うままにモチーフもサイズも自由に描いてみたらどうですか!?〟

と、これまた常識破りの発想で、気持ち良くチャレンジさせてくださいました。

憲法作品の取材で、世界一幸せな国、ブータン国王へ行きました時は、

〝俺もブータン国王に行きたい〟

と、本気で仰ってました。今から思えば、私も本気でお誘いしていたら、どうなっていたでしょうか。

(この写真は、2012年の至峰堂画廊での個展パーティにて、吉井先生からお祝いでブータン国王の本物の民族衣装をプレゼントして頂き、少し酔っております。吉井先生にはパーティでスピーチもして頂きました。)

憲法作品に取り組んでいた5年間は、これに集中するべく個展活動もグループ展発表もしませんでした。ただ損保ジャパンの推薦制のコンクールに評論家枠から推薦を頂き、めったにないチャンスでしたので、憲法作品の中から憲法前文の三部作の中の一点を130号で描いて出品させていただきました。それが大賞を頂きました。

その結果をご報告した時の吉井先生は、

〝よかったな!よかったな!本当によかったな!〟

と、我が事のように大喜びしてくださいました。

(上の写真は2013年に損保ジャパン東郷青児美術館にて、フィナーレ選抜奨励展というグループ展が開催された時の会場の私の作品ブースの様子です。)

ブータン国王を取材してから五年、日本国憲法の心を描く、は全110点に及びました。

憲法作品が全て完成してからしばらくして、またも吉井先生は奇想天外なことを始められました。

〝弁護士は、言わばお布施を戴いて食べさせてもらっているような職業だから、ならばお寺や神社の境内のような空間を、誰にでも自由に無償で提供するべきではないか。〟

と、吉井先生らしい発想で、大阪市の一等地の大空間をエートスステーションと名付けられ、まさに境内よろしく年に一万人が利用するēthosな空間をつくられました。

そして、エートスステーションのぐるり壁画には、私の憲法作品の大作を常設してくださいました。そしてもちろん、エートスステーションは誰もが無料で利用出来るという、まさに現代社会の境内です。

吉井先生流の境内、エートスステーションが出来てまたしばらくして、超多忙の吉井先生が、またまた突拍子もないことを提案されました。

昨年の8月から10カ月がかりで、〝日本国憲法の心を描く〟の全110点の作品を、一条一条一点一点を憲法解説と絵画解説をして、全ての日本人の足元に当たり前に存在する今の憲法について、考え感じる機会、全10回の〝憲法トーク〟を開催しました。

昨年10月5日には、毎日新聞夕刊一面トップに、デカデカと憲法トークの記事と作品がカラーで紹介されました。更に今年の5月2日、憲法記念日前日には、朝日新聞朝刊社会面にカラーで、大きく紹介されました。

吉井先生はその両紙面を、

〝100部くらい、いやもっと沢山取り寄せよう!こんな嬉しいことはない!〟

と仰って、エートスステーションでの憲法トークでも満面の笑顔で紹介されていました。ちなみに5月2日の憲法記念日前日の、最終回の憲法トークでは、その前日が吉井先生の古希の誕生日でもあり、お客さんから頂いた花束を吉井先生への感謝と重ねて拍手の中、私から贈呈させていただきました。この瞬間のエートスステーションは最高潮に盛り上がりました。

今年は更に、10月には東京での私の個展会期に合わせて、〝はじめて憲法を考えるときのように〟と題した、憲法作品と役者さん方とのコラボ企画で演劇パフォーマンスを開催しました。これにも吉井先生は、なんとしてでも東京まで行きたい、と多忙なスケジュールを調整してくださり、行く気満々で楽しみにして下さっていました。

しかし、吉井先生に観て頂くことは出来ませんでした。

憲法演劇と東京での個展のご案内にエートス法律事務所を訪ねました9月、吉井先生はかなりお痩せになっておられて、正直イヤな予感を感じておりました。

10月始め、初めて吉井先生から直筆のお手紙をいただきました。東京での憲法パフォーマンスに出席出来ず残念でならない、との本当に気持ちの込められた内容でした。手紙の末筆は文字が震えておられ、胸が張り裂けそうになりました。

先日、初めて吉井先生のご自宅を訪ねさせて頂きました。

先生に憲法作品が全て完成した御礼にと描かせていただいた吉井先生の肖像画が、リビングの一等席に飾られていて、何処から見ても先生のいつもの笑顔で見つめておられるお写真に向かって、御線香を上げさせていただきました。

吉井昭先生

奥様と初めてお会いし、ゆっくりとお話をさせていただきました。

奥様は私のこと、憲法作品のことをもちろん深くご存知で、吉井先生がいかに私などを目にかけ応援して下さっていたか。改めて温かく有難く、私のようなちっぽけな人生において、如何に吉井先生との出会いが偉大であったのかを、深く深く感じ考えさせていただきました。

奥様から、病院でのご様子など詳しく聞かせていただきました。

どんなに飲んで帰られても、翌朝には日課の散歩に出かけ、ホノルルマラソンにも何度か挑戦され、60を過ぎてハーレーに乗るべく教習所通いをされたりと、健康自慢体力自慢であった吉井先生。あんなにエネルギッシュだった吉井先生が、実は9月に最後にエートス法律事務所でお会いして、エレベーター前までわざわざ見送って下さってから間もなく入院されていたことを初めて知りました。持ち前の体力で三度の峠を乗り越えられ、また奇跡を起こされるのではと、皆さんが期待されていた11月7日。

私が近鉄上本町駅の奈良行きのホームで、ダンディ過ぎる吉井先生を目撃したあの時間、先生は病院で奥様やご家族、事務所の方々と、薄れゆく意識の中で最後のご挨拶をされていたことを、奥様から初めて教えていただきました。

手帳を見て、あの日が11月7日の夕刻であったことを確認して胸が熱くなりました。

〝吉井は、弓手さんに、よっぽど会いたかったんやね〟

と、奥様にあの日の不思議な出来事をお話しして、涙を流され、しかし喜んでくださいました。

〝吉井先生は、本当にカッコ良かったです!〟

と、お返しするのが精一杯でした。

先日、エートス法律事務所主催の

故 弁護士 吉井昭 お別れ会

が、大阪弁護士会館にて開かれました。

広い会場には700名を越える、生前の吉井先生と親交のあった方々が最後のお別れに駆けつけられていました。

会場隅には吉井先生の生き様お人柄を紹介するべく、さまざまな記念品などが飾られていました。

ホノルルマラソン、大阪検定、新聞連載のコラム、愛読書、そして、私の描いた憲法作品と紹介された新聞記事。

生前の、若かりし頃の吉井先生からつい最近の、ニコニコ笑っておられるスナップ写真まで、スライド写真が繰り返し映し出されていました。

事務所での写真には、ほとんどと言ってもいいくらい、私の憲法作品の前で記念撮影されていて、いかに作品を気に入って下さっていたか、それらのスナップ写真を選ばれたご家族や事務所の方々のお気持ちが熱く伝わってきました。

私とのツーショットもありました。

私の44年間、絵の道を志してからの28年の内の8年間もの時間、吉井先生と出会い応援して戴けたこと。何より、

〝日本国憲法の心を描く〟

という、おそらくはこれからも私の画業において大きな土台となり続けるであろう幸せな仕事に巡り会えましたこと。

一生忘れることはありません。

吉井昭先生

ありがとうございました。

合掌

洋画家 弓手研平