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アウシュビッツ・ベルケナウ収容所にて考えたこと。

By |9月 26th, 2010|

ここに長々と書くとあまり読んでもらえないみたいだが、それでもあえて書くことにする。 「最悪の状況におかれた人間は自分の人間性、“人らしさ“を保とうとする。そのために芸術の役割、そのチカラはすばらしいのです。」「死と隣合わせの過酷な環境のなか朝目覚めて、瓦礫の隙間に咲いている花を見て“きれい”だと感じられなくなると、もうそれは人らしさを失っている。 人間としてもうお終いなんです。だからこそ彼らは、たとえ食うものがなく、人間として扱われない地獄の状況に置かれても、芸術に触れることで自分の人間性を保とうとしたんです。」この言葉にグサリときた。だから長々となろうとも書こうと思う。(かなり過激な内容になってしまいますが、どうか目を背けずに読んで戴ければと思います。)   ほぼ正確なデータが残っているなかで、おそらくは人類史上最悪で最も恐ろしい大量殺人が行われたところ、ポーランドのアウシュビッツ・ベルケナウ収容所に行ってきた。 わずか数年間に百万人を越えるユダヤ人が、大量破壊兵器ではなくナチスドイツによって、しかしそれにはナチスのおぞましいカラクリがあって、実際の殺戮行為は自らの死の恐怖から逃れんとユダヤ人自らによって行わされたという。 日本へ観光に来た外国人が、「広島や長崎は恐ろしいから行きたくない!まして霊なんかついてきたら…」などと言われたり思われたりしたら、日本人として悲しい。同じようにナチスドイツによる戦争の遺物とはいえポーランド人も、ましてや世界中に散らばり生き残ったユダヤ人にすれば、当然同じ気持ちであろう。 大量に残されたユダヤ人の髪の毛の部屋、靴の部屋、鞄の部屋、収容所で最低限人間らしく生活しようと持ち込まれた日常品、例えば最低限の食器の部屋、人形など子供の玩具の部屋、眼鏡の部屋、などなど、戦後60年以上の歳月を経て錆び付き変色こそあれ、無造作に積み上げられ、どれもナマナマしく強烈に何かを訴えかけてくる。 それらはたしかに目を覆いたくなる。現代美術でよく似た表現があるが、比べものにならない。これら大量の遺品はよく知られているように、ヨーロッパ各地から小さな貨物車に詰め込まれ、床面十二・三畳ほどのところに70人からが荷物を抱えて乗せられたという。老人や子供は、着くまでに息絶えてしまうこともあったらしい。そして、なんとかアウシュビッツまでたどり着いたところで、労働力として使えそうな男性などはベルケナウ収容所の方へ、その他老人や子供、女性のほとんどは、わずかな希望を持って必死で運んできた家財道具は没収され、集団生活のための消毒と偽られて、丸裸にされた。誇り高き紳士も、その場なりにも精一杯おしゃれをした少女さえも。そして、その五分後にはガス室で殺されてしまう。 没収された家財道具の類いは分別され、ドイツ国民の財産となる。一つ一つは微々たる価値のものであっても、それらが百万人分を超えると無視できない価値である。ましてや戦時中のこと、ナチスドイツにとって行為を正当化する要素は多分にあった。しかし家財没収の正当化などと比べものにならない行為が、人間性の欠片もないガス室での大量殺人後の、常軌を逸した行いである。ほんの五分前までは、人間として恐怖と僅かながらも未来への希望に思考を巡らせていたであろうまだ温かい体温の残る生身の肉体を、まるで食肉を捌くがごとく扱ったこと。 女性は頭髪を削がれ、紡績製品の原料となっていった。さらに、体から絞り出された脂分は石鹸などへの加工もされたという。その行為は想像するのも耐え難い。残った大量の肉体の残骸は、やはり自身に迫る死への恐怖から逃れるため、ナチスの命令によってユダヤ人自らによって焼かれた。しかしあまりに大量の死体に対して、焼却燃料など贅沢品であって、むしろ伝染病を防ぐなどと、対外的な名目・目的程度に処理され、生身よりもより残酷な姿で埋められた。 これらの行為は、良心ある人間にはとても出来ない。ナチスドイツのあまりにも巧みなカラクリはそこにあったのである。 ナチスの命令とはいえ、それぞれ一ドイツ兵自らがその行為を行えば、やはり健全な理性、人間性によって抑えられただろう。だからこそ指示こそしてもその残忍極まりない現場行為を、ユダヤ人にさせることでねじ曲がりつつも兵の理性は保たれた。ユダヤ人にしても、その行為を行っている者はその瞬間、自らの命をかろうじて繋いでいるのである。さらに腹立たしいほど残酷英知なのは、それらの没収殺人の子細な記録を数値化してまとめるという“業務”をドイツ兵に課した。それは例えば、没収した懐中時計があったとして、『今日は何千個の収穫があり、ドイツ国民にとって●●の利益をもたらしたことになる。』と文書化した。現場行為を行っていない彼らにとって、この文書化するということで自らの忠誠心、歪んだ愛国心といったものが正当化されていった。没収行為に始まり、ついには殺人後の頭髪を削ぎ取る行為さえ、髪の毛●千人分が『絨毯●メートル分、●枚分』と数値化文書化され、ドイツ国民にどれだけの金銭的利益をもたらしたかと考えることで、解けないほどねじ曲がって正当化されていった。 では何故にユダヤ人たちは、これだけの残忍行為に巻き込まれ抵抗出来なかったのか。 これだけの残忍行為であったので、どこからとなく噂は流れていた。しかし当時のユダヤ人側からみたドイツ人のイメージとして、『まさかあのドイツ人がそこまではしないだろう。誇り高き真面目なドイツ人なら、我々を守ってくれるだろう。』と、現在でこそそのイメージは理解できるが、あの状況においてドイツ人に対する良いイメージというものすらナチスは計算し利用した。 日本人からすると、ユダヤ人のイメージは、『商売上手、お金持ち、民族として数奇な運命…』など浮かぼうか。しかしその商売上手なことなど、民族として数奇な運命を辿ってきたからこそ、一生懸命生きようとして得たことである。ユダヤ人に限らず、日本人にしてもドイツ人にしても、その民族の歴史経過が特徴をつくりイメージをつくる。 民族というものは、歴史を辿れば常に他民族と衝突してしまう。しかしユダヤ人という一民族丸ごとを消し去ってしまわんとしたこのアウシュビッツ・ベルケナウ収容所で起こったことは、ある意味では特殊なことである。たしかに第一次大戦で、膨大すぎる賠償金を背負わされたドイツ人は、その脱け出せない閉塞感から、たとえ強引でも強いカリスマ性を持ったリーダーと強力な政治力を待ちわびていたという背景はある。そこへナチス・ヒトラーが現れ陶酔していった。 [...]

ブータン後遺症。

By |11月 1st, 2007|

"マニ車"以降のブータン現地記録の携帯ブログは、現地の電力事情によりまして記録出来ておりません。って、ちゃんと変圧器を通して携帯充電したのですが、コンセントが『バチッ!!』って煙出してくれて、結局このau携帯電話には、ブータンの純血な??電気は充電できないようでありました。 ところで、携帯は帰ってからいつものコンセントで無事に充電出来たのだが、僕自身の頭の方が、どうにも放電状態で始末が悪い。 おそらくは、ブータン後遺症ってヤツだと思う。 幸福、幸せってなんだろう…… って何処かで考えてしまっている。帰ってきて、ダボダボ半ケツズボンで携帯片手に大ハシャギの学生男子を見たり、金髪脱色で近寄り難き鋭きメツキの女子学生諸氏などなどとすれ違ったり、あるいは、テレビに写るバラエティ番組の軽薄さに猛烈な違和感を覚えたりと、とにかく、日本の日常の見渡す限りの雑踏に、足元の不安を感じてしまうのである。 短いブータン滞在中、案内ガイドを務めてくれ、連日連夜、ブータンの今後を熱く語ってくれた、日本語を話す27歳二人の子持ちのCさんの真直ぐに澄んだ瞳が脳裏をよぎる。 Cさんが日本留学中(北海道に三か月間居たそう。ブータン政府からの国費留学とのこと…)感銘を受け覚えたという日本の歌、『ふるさと』を帰り際、オンボロバスの車窓に流れる美しいブータンの山や田や川の風景を伴奏に、恥かしそうにも実に澱みなく3番まで歌い上げてくれた。 ブータンの27歳の真直ぐな青年の、美しい日本の歌。 日本人の何人が、あの美しい日本語の歌を、最後まで原風景を浮かべて歌えるだろうか…。 僕は只今、ブータン後遺症である。

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