高校卒業後は自宅の兄との相部屋で浪人生活をする。アルバイトで画材代を稼ぎながら、友人をモデルに招き描いた100号の作品で第51回一水会展に入選する。一水会には高校の恩師も所属していた。
一年の自宅浪人の後、家から近い大阪芸術大学美術学科に入学する。
当時の大阪芸大は前衛の具体美術協会や在野団体展の教授陣が仕切っており、一水会などの日展系団体に出入りしている学生は疎ましく扱われる空気があった。そんなことは気にも留めず、大学の広いアトリエ環境で絵が描ける喜びに心底満足し、旅行クラブにも所属して全国各地をスケッチしに回るなど芸大生活を心置きなく謳歌する。
在学中もアルバイト代はほとんど画材や出品代に費やし、一水会展には毎年出品。四年の時には佳作賞を受賞する。その頃の作品は芸大彫刻室などをモチーフに人間が創作する空間を描き、ものを創るという人間活動の原点を探り始める。